村には税金がほとんど入らなくなる。
新庄税務署管内の小国村ではどうせ税金は入らないのだからと、役所のほうから先に手を打って村民に対し三カ月の納税延期を提案し、税金を納めないこしで浮いた金で来年の種籾を買うように勧めた。
けれど農民はその種籾も食いつぶしてしまったので、村は政府に対して米二百石の無償交付を申請し、冬期の食いぶちとして政府米の払い下げを申し込んだ。
けれども払い下げ米は現金で一俵九円七二銭もし、窮乏した農民にはとてもじゃないが手が出せなかった。
若い者は県外に出稼ぎに出ていった。
山形からは、静岡県の砂防工事や横浜の航空隊の埋立工事の他、常磐炭田などに出ていく者が多かったようだ。
悲惨を極めたのは、娘たちだった。
年端もいかない若い娘たちが、製糸工場や芸妓、娼婦、酌婦として売られていった。
両親のもとに帰ってこられるのは、病気で動けなくなったときか、年を重ねて「商品価値」がなくなったときでしかなく、青春などはありようもない一生だった。
山形県保守課の調べでは、昭和九年度中の県内の娘の身売りの数は二三九八名で、その内訳は芸妓二四九、娼婦一四二○、酌婦一六二九となっている。
このころ東京都内での娼婦の数は全部でおよそ七五○○人だったとされているので、山形の娘たちはその五分の一なかには悪質な周旋屋にひっかかって、親の手には一五○円ほどしか渡らなかった例もあちこちにあった。
当時の新聞には、柳行李を背負った娘を駅まで見送りに行く農民の姿が写真で紹介されている。
売られた娘が娼婦になると、玉代は七○銭だった。
これを四分、ハ分に分けて、楼主が六分を取った。
身売りの際の前借金六○○円を返すには、玉代はあまりに低かった。
身代金といってもいい前払い金は、六年年季で六○○円が相場だった。
このうち二○○円が着物代として楼主に取られ、五○円が周旋人に取られた。
娘を売った親たちの手取りは三五○円ほどだった。
一年当たりに直すと、六○円ほどにすぎない。
米一石の値段が約二五円の時代である。
故郷を出たときは多少はふっくらとしていた娘も、数年のうちに見るかげもない痩せこけた体になり、病を得て体を引きずるように村に舞い戻るのが大半だった。
昭和九年十一月十八日の「Y新聞」に載った身売防止座談会の記事を引いておこう。
「山形県下のトップを切った凶作対策、娘身売り防止並びに就職斡旋は着々実効をあげ、身売り防止座談会は七月三日、最上郡東小国村がトップを切って、本月二七日までに百六十五回開き、警察当局、矯風団体が協力して身売りの一歩手前で救った者百六十三名で、身売り防止運動はいよいよ本格的に行われんとして居る」。
同じく昭和九年十二月二十九日の「TA新聞」はこのように報じている。
「天童署では十五日天童町製糸工場東郡社で身売防止に関する講演会を開催。
おなじく東置賜郡和田村でも二十二日小学校で婦女人身売買に関する座談会をひらく。
楯岡署では県警保安課より原田警部補を講師として招き、十八日は大高根小と役場で、十九日には戸沢村で、二十日は富本村小学校で講演会を開催する」。
政府と議会には、農山漁村と都市部から凶作と不況対策についての数多くの請願や陳情が殺到していた。
そのため衆議院はすみやかに「時局匡救のための」臨時議会を開く決議を可決。
政府として打てる手を打つべく行動に出ていく。
匡救とは「言行の悪いところをただしすくうこと」(広辞苑)だ。
「深刻なる経済上の不安は今なお快復の暁光を見がたく、農村の困侭、と都市の鎮痛とは益々甚だしからむ、とする状況であるのみならず、近々、兇変、相継いで行なわれ、心極めて不安、誠に重大なる危機、とみなければなりませぬ」。
Mcは、労働者も商品の一つであると見ていた。
「一方は時計で測られ、他方は秤で測られる」とは、『賃労働と資本』にある有名な言葉だ。
商品の価格が下がれば、労働による賃金も下がる。
すなわち、人間の価値が下がるということだ。
不況はそれを加速していく。
昭和七年(一九二一二年)五月十五日、海軍将校らによるクーデター「五・一五事件」よってI首相が暗殺され、後を受けて非常時内閣として発足したS内閣は、後の第六十二臨時議会の開会で、進行する恐慌のさまを冒頭に述べている。
スケールこそ比較にならないくらい小さいが、これは日本版ニューディール政策といえるだろう。
昭和七年八月に開かれた第六十三臨時議会は会期を三回も延長して、一億八五七万円の農村匡救予算を可決した。
これには、農村土木事業費八六二五万円、小学校教員の俸給未払いに対する補助一二○○万円が含まれていた。
土木事業費は、治水や道路、開墾などの事業を興し、住民を働かせることによって賃金収入を得させるために使われた。
焼け石に水としかいいようのない額でしかなかったが、議会の決定した救農予算に基づく補助金は、まもなく各県を通して市町村に交付され、土木事業が始まった。
運よくそこで働けた者には、労賃として一日六○銭から八○銭が支払われた。
「救済事業とは名ばかりで、政党と請負業者の食い物」とか、「救農事業で儲かった者は、地主、監督、セメント会社、鉄材料店だけ」という指摘が、おそらくは実態を正しく伝えているのだろうが、国がなんとか経済を刺激すべく、カンフル剤を打筈フとしたことだけはたしかだ。
この年、一日六○銭あれば、米が二升から二一升買えたというから、効果がなかったわけではないだろう。
昭和七年(一九三二年)八月に開かれた臨時議会で可決された農村匡救予算には、小学校教員の俸給未払いに対する補助も含まれていた。
小学校の先生の給料がなぜ滞っていたのか。
今日のような地方交付税による交付金といった形での国から市町村に対する援助はなかった。
村々はその財源を村税の収入で賄わなければならなかったのだ。
税収の大部分は戸数割という、一戸ごとに割り当てられる税金だった。
この税金が重いので、金持ちの地主が税金の安い町へ逃げてしまう。
すると、残っている貧乏人の税がもっと重くなる、という悪循環がつきまとっていた。
小学校は町立や村立であるから、先生の給料も滞ってしまうというわけだ。
昭和七年には、全国に七三八四の小学校があり、うち五五七校が俸給未払いだったというから、約一三校に一校の先生はダダ働きをしていたことになる。
この政策は、昭和九年に打ち切られる。
昭和六年の満州事変とそれにつづく上海事変のために軍事費が急膨張し、国家予算が圧迫されたためだ。
昭和十年には歳出の四六%を軍事費が占めるという異常な予算編成になるのだから、日本版ニューディールどころではないわけだ。
時計の針をTN新聞の記事より半年だけ前に戻す。
いやはや、というため息しか出てこないが、これが恐慌の真の姿なのだ。
昭和六年(一九三一年)十二月十三日、政友会総裁Iが新内閣を組閣した。
すでに述べたようにIは、この五カ月後、「五・一五事件」で凶弾に倒れることになる。
しかしIによって大蔵大臣に任ぜられたTは就任後、ただちに金輸出再禁止を実施。
「青年は福島県の小学校代用教員で、町村財政窮乏のため、数ヵ月一文の給料も貰えず妻あげく子二人を抱えて困った揚句、東京で女中奉公をしている妹から、金を借りようとして、徒歩で上京。
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